日々は刻々と過ぎていく、僕は流される

毎日が刻々と過ぎていくんです。普通に生きてるだけじゃ。表現がしたい。美しく過程でありたい。プロセスでありたい。というより過程としての人生、プロセスとしての人生に価値を見出したい。みんなにわかってもらうために表現するのではないのです。わかんないよねっていうことを表現したいし、わかんないけどなんか綺麗だなとか、美しいな、いのちだなって思えるものを作りたいし、そんな自分の命を表現したいだけなんです。「お勉強」が目的ではないし、「斬新であること」「美しさ」が目的なわけでもない。ただの命を突き詰めたいだけなんです。めんどくさいことはなしがいいです。重ねて重ねて毎日を美しくしたいのです。わかるために生まれてきたのではないのに、「正しく」わかることを強要されるのは疲れます。分かり合えなくていいではないですか、みんなとおなじ「わかる」を共有しなきゃいけない表現、芸術、うた、詩、生死、なんてものぜんぜん楽しくない。孤独じゃなきゃ、美しさはどんどん殺されていくのだから。みんな何でもかんでも共有しすぎだし、僕がそれを強く感じてしまうのは、多分、相対性を自分に対し強要し、「わかりあわなきゃいけない」と脅迫しているからなんだと思います。振り子のように、独になりたくなるのです。他人の言うことを気にしすぎて、「みんな」と時間を共有しすぎて、僕がどきどきする、僕だけの美しさ、僕だけの楽しさ、僕だけの怒り、僕だけの悲しみ、僕だけの喜び、本当の自分の感覚がどんどん深く深く、沈んでいっているようで、死んでるみたいで、それがすごくすごくすごく嫌なのですなのですなのです。絶対としての自分を取り戻すために表現したいです。どきどきさせてあげたいし、喜ばせてあげたいし、哀しませてあげたいし、愛させてあげたいのです。